11月2日(土) それを自然だと感じてしまえば、それが悪事や迷惑でも意識から外れる――

要するに「罪悪感」さえ起こらなければ、どんなに悪い事や迷惑な事をしたとしても何も感じないという事である。

故に「俺という存在を巻き込む事に『悪い』とか『迷惑になる』という意識を持たなければ、俺をどうしようが別に何とも思わない」という話。
だから、自分が得をしたり楽をしたり出来るという独り善がりな意識を抱いた上、それを為すのに俺を巻き込んで利用する事に対して「罪悪感」を全く抱く必要が無いと自然な形で思い込むことが出来てしまえば、俺にとってどんなに迷惑であろうが意識することはない、という事。
「いじめ」というものは相対的に「いじめる側」と「いじめられる側」という構造になるが、この「いじめる側」に『相手をいじめている』という意識がなく『仲良く遊んであげている』という考えで「いじめ」を行なっていた場合、それは当然「自分はいじめを行なっている」という意識で行動しているはずがない――という論理と同じである。

俺の人生はこの「別にコイツが迷惑に思っていると思っていなかった」という前提の意識を持った奴らに、俺自身の時間や行動を搾取されることが連続して行なわれ続けているようなものである。
自分が楽をする為に、俺の時間を使って自分の時間を効率的にする、という当人としては「自然な行動」と認識するものによって、俺の個人的な時間や行動はそいつらに搾取されていく。
悪意を持ってやるヤツも居たが、大抵は悪意など抱かず、あくまで「自分自身にとって得で楽な行動を採りたいから」という自意識優先の感覚に基づいての「自然な行動」でしかない。

この場合、俺が断ったとすると、俺のほうが悪い、ケチだ、優しくない、そのくらいしてくれてもいいだろう、というリアクションが返ってくる。
逆に、俺がこの行動を行なったとしたら、忙しい、誰に言ってんだ、他人を頼るな、そのくらい自分でやれ、というリアクションが返ってくるので、結局は俺が悪いという事にされる。
要するに俺以外の人間というヤツは、俺が言われたことを唯々諾々とやるのがこの世の絶対的法則だと信じて疑わないような奴らばかりで、誰も本気で俺を庇ったり擁護したり助けてくれたりしない。何故なら、それが自分にとって「俺を使えないというリスク」に直結するからである。

端的に言って、自分が気兼ねなく使い捨てに出来る人間が居るのと居ないのとでは、気分や気持ちの面でだいぶ違うものである。
自分よりも劣等な存在が居れば安心するし、優越感に浸れるし、自分がその劣等生にならない限りは気楽で居られる。
人間とは、自分以外の弱い誰かを犠牲にすることで安心するように出来ているし、自分以外が面倒臭い事を黙ってやってくれるとわかっているなら、自分でわざわざ面倒臭いことをやる奴は居ない。全部、押し付けられるヤツに押し付けて、自分は自分のしたいことをやるに決まっている。

俺は――徒党を組んだ多数の人間から、そういう扱いを受けてばかりだったし、そうされることが当然の様に周りに認識されてきた自覚と確証がある。これは感情が絡んだものもあれば、感情も意図もなく「ただなんとなくそれがイイ」と本能的感覚的に解釈して為されたものもあった。そうなると「悪意」も「罪悪感」もないので、俺を自由に利用している事に何の痛痒も感じていない。むしろ自然な行動でしかないし、それを説明すると周りもそれで納得する。俺だけが一方的に行動を押し付けられ、それが当然と解釈され、誰も俺を擁護しない。

そして……その事をこうやって文章化したり言語化したりすると、みな総じてこう言う――「あなた自身の『被害妄想』だ」と。

殴られたことがない奴に、殴られた時の痛みや悔しさなどわからない。
感情も意図もなく、ただ自然にやったことがその人間への最悪な嫌がらせとなっていたとするなら、やった側の人間がその人に「悪いなぁ」と思うだろうか――思う訳がない。
こういったことを周りの人間に説明しても、全く理解は得られない。当人たちにその意識はないし、悪い事をしたという自覚もないし、そもそも自分が楽をする為に「気軽に使って捨てていい」と感情もなく確信している相手を、人間は「可哀想」などと思う訳がないのだ。

恋愛感情において――「好き」の対義語は「嫌い」ではなく「無関心」であるという。
俺がされているのも、この「無関心」に限りなく近い。
「悪意」も無ければ「可哀想」もない。そこに在るのは「自分が楽になる為の道具」でしかなく、それは「誰が使ってもいい」と感覚的本能レベルで刷り込まれているのだから、そこに何の感情もない。「好き」でも「嫌い」でもなく、ただ「無関心」に「使う」だけの存在。

そういう扱いを、俺はずっとされてきた――という自覚が、俺自身にだけ、在る。『被害妄想』ではなく、厳然たる事実であり現実である。




………確実にこの文章は、俺以外の誰にも響かない、という確信だけがある。




そういう気持ちを終日抱いたまま、今日も「普通」に「普段通り」に過ごしておりました――「家族」という鎖のような存在に「使われる」日を。

晩飯は、プルコギとブリの刺身。
お安い物品を選んで買ってきましたわ。
これだけの事をされている俺が、他人の事を思い遣って、お安いものを見付けてやっているんだけど――絶対に伝わらない、俺のこの自発的な優しさは。

夜は、動画鑑賞。
何かやっぱりパソコンやネットの調子が良くない。
自分の身体と似かよってくるんかね、自分の機械類ってヤツも。

他人が使っている機械類って、自分のより早くて調子良さそうな事が多いものな。

体調は昨日以前よりはいいけれど、気分や感情はさほど良くない…というか、見ての通り、最悪の部類かもしれんね。

いつも以上に壊れている自分を鑑みて、あぁこんな姿を文章で晒しても、見る人も居なければ、居たところで同意は得られないから無駄だな、と究極の諦観に支配されながら、今日はこの辺で。






人間嫌いの理由〜自称・コミュ障とぼっちが自分を理解するためのリスト50
人間嫌いの理由〜自称・コミュ障とぼっちが自分を理解するためのリスト50
読んだことない本を挙げました。
まぁ俺は漫画や小説以外で挙げる本はほぼ全部、未読であり興味がない本ですな。
自分というものを理解するにあたり、他人の文章で理解出来るとは思ってないのでね。

よく「この歌の歌詞を聞いて共感し、涙が溢れました」みたいな事を言ったりする人が居るが、俺はそういう共感を歌の歌詞から得たことがない。
「この歌詞に背中を押されました」とか「受験期に聞いて頑張ることが出来ました」とか、「失恋した時に聴いて、自分以外にもこういう経験をした人が居るんだと思ったら、前向きに考えられるようになりました」などというが、俺には一つたりともない。
漫画や小説、映画で描かれるシーンを観て、感動したりすることは勿論あるが、それで人生観が変わったとか、背中を押されたとか、やり直せる気がした、とかいった「人生の岐路」を左右されるようなことは殆どない。

つくづく自分は「他人」の存在に恵まれてなかったんだなと確信する。
学校の「教師」は最低な人間が多かったし、敬愛するような恩師など存在しないし、本当に腹を割って話せる友人など殆ど居ないし、ほぼ全員が俺を気軽に利用して、それを何とも思っていないような奴らでしかないと思っているし、それをそいつらは俺に対しての態度で立証してくれたりする。
人間にとって「自分以外の存在」とは普く「利用する道具」でしかないのだと、俺はずっと思っている。

親や保護者は自分が育つ為に必要な「道具」であろうし、友人知人というのは自分が生きて行く為に必要な「道具」だろうし、全く見ず知らずの他人は何某かの形で自分にとって必要な「道具」なんだろうから、存在することに意味はあるのだろう。でもそいつらが俺を「道具」として使ってくるわけだから、お互い様なのだろうな。

「友情」「愛情」というものは、そういう「道具」扱いをするにあたって、一番使い易い『誘い文句』なんだろうな。
愛だの恋だのと語ったところで、要するに自分が楽しくなりたいとか気持ちよくなりたいと思う時に持ち出して、体よく自分の為に相手を利用する為に使う「言葉という道具」でしかない。
心底俺は人間が嫌いだし、真の意味では信用も信頼もしていない。気持ちよく利用させてくれて、文句の一つも言わないような他人が理想だと思うから――なるほど俺も、薄汚い人間だと確信できた。

人間はみな「道具」であることを理解し、諦めることで生きているんだなと、憐れな気持ちになりながら、また明日。

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